村瀬秀甫氏とコルセルト氏
先日のこと、私が晩年の事業のひとつとして国会図書館に献納を計画している囲碁文庫の一部
にぜひ加えていただきたいと知己の同好者から、方円社創立後明治十三年創刊された「囲棋新
報」の一部と打碁の写本数種を贈られた。半紙型に木版で印刷した十数ぺージの小冊子をバラバ
ラとめくっているうち、これがその後五十年第五百二十号まで連綿として発行され、現在の日本
棋院の棋道に引継がれている歴史的機関誌かと思うと感慨はひとしお深く、永い問の碁界の変遷
がつぎつぎと頭のなかを往来するのであった。
それにつけても思い起されるのは、徳川幕府の終息に際し、それと運命を共にせんとした棋界
を、決然立って没落から救い、みごと今日の棋界の盛況に導いた村瀬秀甫の偉大さである。
村瀬秀甫は天保九年(西紀一八三八年)江戸車坂下の一大工の家に生れた。幼時、父の友人の
幕府旗本某氏らの打つ碁を傍で見物していただけで、たちまちこれを理解し、八歳の時同旗本の尽
力で、当時同じく車坂下にあった本因坊道場に通ったが、丈策、秀和両師はこの少年の碁才に多
大の期待をよせて十四歳で塾生とした。有名な棋聖秀策とは芸兄弟で、坊門の双璧と称せられた
が、芸兄秀策は惜しくも若くして病没した。
しかし、巨人秀甫に対する天の試錬はきわめてきびしいものであった。すなわち、秀策の没後
は坊門の家憲に従えば、当然秀甫に跡目相続は来るのであったが、突如丈和未亡人の反対にあい
さらに秀和も相続人を実子秀悦に定めて本因坊家を継がしてしまった。秀甫には七段が与えら
れ、当時棋士最大の名誉であった御城碁に列する資格を得せしめたのであったが、御城碁は不幸
幕府の弱体化とともに文久二年を以て休止され、秀甫は遂に天下にその天稟を誇示する機会を逸
した。
爾来、失意の秀甫は各地遍歴にウサを晴らし、時に斗酒をあおって放言高論わずかに気を紛ら
わしていたが、天この偉才を捨つる事なく、命ずるに前述の如く碁界再興の大業を以ってし、
方円社を起すや俊雄を集めて、定式手合を開き現在碁界の礎を築かしめたのである。
一日、某氏が秀甫に「先生ほどの技量の持主であれば昔なら高禄をはみ安泰な生活ができたも
のを、今の世に生れてお気の毒である」と慰めたところ、秀甫は「そんなことは敢て意に介しな
い。この文明開化の時世に遭遇して、国技である碁を世界に普及することができるのが、どんな
に幸福であるか、」と答えたという。
さて、当時、海路はるばるドイツから工務局の鉄道関係技師として招へいされたコルセルト氏
は外人ながら碁の趣味を解し、当時一方の雄であった第十三世井上錦四郎因碩を訪ねて教えを乞
うたのであるが、井上家では排他的であった当時の国情もあったが、毛唐人なんぞこの清戯を解
せんや、とすげなく断ったのである。コルセルト氏はさらにあきらめず、人を介して秀甫を訪ね
たところ、秀甫は海外普及の好機至れりと懇切に指導したのである。
その後コルセルト氏は多くの碁書を本国に持ち帰り数種の碁に関する研究書を出版している。
すなわち、このコルセルト氏の著書こそ、外国文で碁を説いた最初のものであろう。
現代欧州に碁の同好老が沢山あるのも、これによるもので、秀甫の人物識見の高邁なることは、
これをもってもその一班をうかがうに足るであろう。
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