名人の名答

 第五世本因坊道知は三十二才で名人となり三十八才で逝去したが、一生中真に力を入れて打った 碁がないといわれたほどの偉才であった。当時は八代将軍吉宗の治下であったが、吉宗はなか なかの変り者で八代将軍を嗣いで群臣を謁見する時に「自分の前に来ても頭を下ぐべからず」と 触れを出したほどの皮肉屋であった。御城碁が毎年十一月十七日の期日に一定されたのもこの吉 宗の時世である。

 この吉宗がある時、碁所の者へお尋ねにたった。「すべて碁の力が同様の者なれば、先着の者 が必ず勝つか」との問に、道知はしばらく考えていたが、徐ろに席を進めて「左様にござります。 年齢が同様にて、その日の気分も同様、碁の力も同様であれば、先着の者が勝を得ます」とお答 え申上げた。流石に名人の名答であると、当時の寺社奉行曲淵甲斐守の随筆「耳袋」に載せられ ている。碁所、将棋所は寺杜奉行の支配下に属していた。

 道知の答えが何故曲淵甲斐守をして名答であるといわしめたか。徳川慕府の封建時代において は、将軍のお言葉に逆らうことはできぬことになっている。しかも道知は囲碁の幽玄なる、強 者と雖も常に必勝を期すべからず、敗者必ずしも劣るにあらざることを悟っている至人である。 これが仲間同志なら「そんなことができるものではない」と一言に否定し去る所であるが、将軍 のお言葉に対しては否定はできない。しかも道知の答えは、表面は逆らわずに実は将軍の質問を えんきょくに否定しているのであって、甲斐守が名答であると讃えたゆえんである。

 御城碁を十三年間に十九局打って全勝している第十四世本因坊秀和の跡目秀策でさえ先番で負 けた碁譜や記録は残っている。

 若し碁力が伯仲であるとき、先着者必勝を期することができれば、現在十九路の盤面を更に 二十一路に増さねばならぬことになるが、当分その必用はないであろう。

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