碁と記憶力
一般の人は碁が強くなるには記憶がいちばんの要素であると思っている人が多いようである、
もちろん、碁にかぎらず何事でも記憶力が必要であることはいうまでもないが、いかに記憶力が
よくても、それだけでは碁は強くなれない。
私の考えでは、碁が強くなるにいちばん大切なことは着手感覚の養成にあると思う。着手感覚とは、一局の碁を打ち進むにつれて、盤面のどこに打つのが筋であるか、その有利な点に着眼する勘の働きをいうのである。
呉清源九段が早く打ってしかも急処を逃がさぬのは、この感覚がずば抜けて良いからで、これ
は生れつきの天才にもよるが、幼少の時から芸一筋に修業を積んだ鍛練の賜でもある。
この着手感覚は碁に関する一通りの智識を修得して、練習を積むうちに自然に悟り得るもので
あるが、性来この感覚の良い人と悪い人とあるようで、感覚の良い人は早く上達し、感覚の悪い
人は上達が遅いわけである。
私は記憶力はあまりよい方ではない。否、人並より悪い方かも知れない。自慢にはならないが
日常の仕事や約束はライフの予定表にメモしてあるが、それでも忘れるほどである。ところが、
これが碁に関することになると、年は老いても記憶力はまだそんなに衰えていないように思う。
これは幼少の時から一すじに碁を修業したお蔭で、碁にだけ記憶力が発達したのだと思う。だか
ら、私は記憶力というものはその仕事に懸命に精進するものには、それに関する記憶力が発達し
てくるものだと思っている。たとえば、熟練した新聞記者が議会の演説を聞けば速記は取らなく
ても、その一言一句を記事に書くことができるとか、勘能な音楽家が音楽を聞けば、すぐその通
りの歌を歌うことができるとか、すべてその道に精進し練習を積むことによって記憶力が発達し
てくるのだと思う。だから、碁の強くなることと記憶力の強弱とは別だと思う。
我々碁界のうちで記憶力が抜群で舌を捲かすのは橋本字太郎九段である。橋本君は少年時代私
の内弟子であった頃、自分の打った碁はもちろん、両隣りで打っている仲間の少年の碁まで皆覚
えていて、帰って師匠の私に並べて見せてくれたほどの記憶力を持っている。
自分が一所懸命に打っているときには、隣りの碁まで覚えるなどということはなかなかできる芸当ではない。私は記憶力はあまりよい方ではないから、若かりし頃打ち出した新定石なども多くは忘れていて、調
べの時なぞ、橋本君から「先生それは、いつ誰れとの手合に打ち出された形ではありませんか」
などと注意されたこともしばしばである。
しかし、碁の専門家は天性は別として、碁に関して
は、深浅の差はあるにしても、皆ある程度の記憶力は持っている。私に例をとって見ると、昨年
の暮と今年の春に中央会館で五人を並べて一度に稽古したことがある。A、B、C、D、Eと碁
盤を一列に並べてAから打ちはじめて一手ずつ打って次に移りEまで行って、またAに戻って打
つといったあんばいでやったのであるが、そのうちの一局を終局後大碁盤に並べて大衆に講議を
したければならぬということであると、その心構えで打つので、その講義を終了するまでは兎に
角覚えておれるものであるが、さて、その責務を果たすと多くは皆忘れてしまう。
このように自分の注意力によって必要なときだけは覚えておれるもので、もしこれがいつまでも頭に残っていたら、それこそ頭は疲労してまいってしまうであろうが、必要がなくなったら忘れてしまうとこ
ろに頭の休養が保たれるのだと思う。
このようなことは普通の人から見ると驚異に感じられるらしいが、専門家にとっては、不思議でも苦痛でもなく、誰れでもできることで、こういうことに対して或る種の記憶力が発達しているものと思われる。
だから、生れつきひじように記憶力の良い人もあり、悪い人もあろうが、天性の記憶力とは別
に、ただ一すじにその道に励む人にのみ、その仕事に対する記憶力が天から与えられるものであ
ると信じている。それは、あまり記憶力のよくない私がいちばんよい例証であるともいえる。
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