助言と待った

   「碁の助言言いたくなると庭へ立ち」という川柳があるが、人の碁を見ていると全く助言をし たくなる。伝説によると、碁盤の裏にある「ヘソ」(中央に凹みのつけてある形をいう)は助言 をしたものの首を切って据える場所である、というのは俗説で、事実は盤上に石をパチリと打った 時の音響をよくするためで、ヘソを作っておくと盤上の何所へ打っても同じ音響を発するもの らしい。

 現在は碁盤の足は恰好よく美的に作られているが、昔の碁盤の足は、細長く梔子(クチナシ) の実の形に作られていたもので、この梔子の実の形こそ「口無し」すなわち助言を戒めたものだ といわれている。この方がむしろ事実に近いと思われる。

 助言についで常に問題をひき起すのが「待った」である。現在碁は国技といってよいであろう が、待ったをすることも我国の特技らしい。中国でも米国でもドイツでも其他碁を打ついずれの 国でも一且盤上に石を打ち下した以上、決して待ったをしないそうである。

 昭和十四年に国際観光局から日本文化を外国に紹介するために発行された英文の書籍の中に碁書 も一冊刊行されており頗る美本であるが、この碁書を読まれた我国チエス研究の第一人者である 某医学博士の言によれば、内容、外観共に完備せる良書であるが、解説中に一個所だけ再版の時 に是非削除して欲しい所がある。それは碁の作法を述べた中に「待った」をしてはならぬ、という ことがくどく書いてあるが、外国人は待ったをするということは一向に知らないのに、その事が書いて あると不思議に感じて、かえって疑問を起させることになる。チエスにおいてはたとえ無意識に駒 に手が触れても触れた以上は何処かに駒を移動させねばならぬぐらいのものである。それを一且打った石 を取り除くなど外国人に対しても甚だ見苦しい沙汰ではないかと聞かされた。

 私はかって落語で「笠碁」や「碁どろ」を聞いて、まことに面白く感じ、また親しい碁友が、 待った、待たぬで腕首を掴み合って争っている光景など、むしろほほ笑ましさを感ずるのである が、外国には一切そんなことはないらしい。

 往年福田六段がドイツからの帰朝談にも、外国の人は決して待ったをしないと語られた。世界 最高の水準にある我国の碁界において、それが平気で行われているということはおかしな語しで ある。

 一体、待ったの起源はいつ頃始まったものか、そんなことを記録した書籍などあるはずはない であろう。私はひそかに思うに、昔の殿様が家来と碁を打つ時に勝手が悪くなると、殿様の御威 光で石を置き換えたことから起ったものではあるまいか。とまれ、碁がおいおいと国外に普及し て、やがて世界的競技ともなれば、この待ったの習慣だけは必然に改められねばならない。  

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