碁の伝来

 碁が我国の史籍に載せられたのは「大宝令」に見るのを始めとする。
大宝令は文武天皇の御代で、大宝元年は西暦七〇一年に当る。大宝令の僧尼令義解に「凡、僧尼、音楽を成し及び博戯するものは(博戯とは双六、樗蒲(ちょほ)の類をいう)百日苦使す、琴と碁は制限あらず」と記されいる。これによって見ると、この時代よりずっと以前に伝わっていたことは明らかである。

 一般には吉備の真備(まび)によって碁技が伝えられたと信じられているが、吉備の真備の入唐は唐の 玄宗皇帝の開元四年で我が国の元正天皇の霊亀二年(西暦七一六年)である。また玄宗皇帝が楊李鷹(楊李鷹は碁をよくする人)を新羅に派遣したのは開元十六年で吉備公の入唐より十二年の後である。

 また「懐風藻」(奈良朝、平安朝のことを記した文芸集)に「僧弁正あり(中略)大宝年中唐 国に遺学し、時に李隆基潜竜之日に遇ふ、囲碁を善くするを以て屡々賞遇せらる」とあり、而し て弁正の帰朝は唐の開元十八年我が聖武天皇の天平二年(西暦七三〇年)で吉備公の帰朝に先だ つこと五年である。吉備公は唐にあること二十年に及び天平七年に帰朝したのである。

 この時代は奈良朝文化の最盛期で聖武天皇の御代に当り、時の都は平城京すなわち奈良にあった。 青丹よし、寧楽(なら)の都には咲く花の匂うが如く唐文化が輪入されて、その繁栄を誇っていたの である。(奈良の大仏は天平十五年に造られている)

 右に述べた如く碁が遣隋使、遣唐使を派遺する時代に既に行われていたとすれば、我が国と朝 鮮との交通によって伝わったことが推想される。
 我が国と朝鮮との交通は古代に遡って崇神天皇(十代)西暦紀元前の御代に始まっており、殊 に十五代応神天皇(西暦二七〇-三一〇)の御宇には王仁が来朝して経書等を伝え、二十九代欽 明天皇(西暦五三九-五七一年)の御代には百済の聖明王が仏像教典等を献じている等より推し て、当時朝鮮に普及していた囲碁もそれ等と共に伝来したと考えて大体誤りないと思う。

 また浅田宗伯著「皇国名医伝」の藤原永全の項には「永全は天智天皇(西暦六六二-六七〇年) の侍医にして頗る堪能の誉高く勅して姓藤原を賜う。其祖先劉伯陽なるもの王奔の乱を避けて帰 化す。実に我が垂仁天皇(十一代)(西暦前二九-七〇年)の朝なり。其孫春平なるもの西域に 使し囲碁を伝受し来れり。」とある。

 これ等の記事より推して、一般に流布されている吉備公による囲碁の伝来説には真を置き難い 点が多い。一応ここで是正しておきたい。

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