瀬越憲作名誉九段のよこがお

明治二十二年五月二十二日、広島県佐伯郡能美島高田村(現在は能美町となっている)に生まれた。
この年は帝国憲法の発布の年で、それに因んで憲作と名がつけられた。
祖父から手ほどきを受けたのは五歳の時で、忽ちにして天才ぶりを発揮し、広島一中に入った頃には付近に敵する者なく、二十歳で上京して一躍三段となった。
その後、順調に昇段し、昭和三十年、碁界最初の名誉九段を送られた。
呉清源、橋本宇太郎九段をはじめ多くの俊英を育む一方、囲碁の海外普及に貢献した。
「御城碁譜」その他沢山の著書がある。
注)これは自伝著書「囲碁一路」から抜粋したものです。
又、゙ 薫鉉九段はこの本を発行した後に瀬越門下に入門しているのでこの本には登場していません。
碁を始めた動機 中学時代 青年時代 方円社へ入社 旭将軍との決戦 四段対無段の一戦 十二円五十銭の碁
万年劫(コウ)の大抗争 新布石との対戦 ラジオ放送・早碁の経験 中国への囲碁使節団 原爆直下の本因坊戦
還暦祝賀会 呉清源
碁を始めた動機
私が碁を覚えたのは五歳の時である。一体にこの地方は、古くから碁が普及していて、慕末に棋聖といわれる桑原秀策が内海の因ノ島から出たことは周知の事実だが、能美島の中央にある中村からは『敲(コウ)玉余韻』(秀策の碁譜百局を集めたもの)の著者、石谷広策五段が出ている。
広策は、通称広二といい、本因坊秀和の門下である関係で、其の跡目の秀策の棋風を慕い、秀策の勃(ボツ)後、その碑を備後松浜に建設したことから、秀和は其の徳に報いるため、策の一字を与えて、広策と名乗るに至った。
これはずっと後の話であるが、前のような因縁を辿って、私の憲作を憲策に改めたらどうかというファンからの勧告をこれまでにしばしば受けたが、私は、自ら秀策に及ばぬことを思い先賢の名を冒すことは好まなかった。
私の祖父は、この石谷広策の推薦によって、明治十五年第十六世本因坊秀元から初段を許された。初段といっても素よりアマチュア初段であるが、広島近在では一番強かった。私は、そもそもこの祖父から半ば強制的に手ほどきを受けたわけである。
その動機というのは、私がやっと五歳のいたずら盛りの頃、ふと眼病にかかり、広島に出て、三木という眼科医の治療を受けて、外へ遊びに出ることも禁じられたため所在なく室内で暮している時に、祖父から四ツ目殺しを教えられて、それからいつの間にか碁を覚えたようである。
そうして、小学校に通うようになってからは、放課後帰宅すると、まず習字の稽古をした上に、論語とか、実語教とか、商売往来とか、腰越状とか昔の本の素読をやらされそれが済むと、今度は碁盤に向うというわけであった。今でも覚えているが論語の「子曰ク朋遠方ヨリ来ル亦楽シカズヤ」とか実語教の「山高キガ故二尊カラズ、木アルヲ以テ尊シトナス。人肥エタルガ故二尊カラズ、智アルヲ以テ尊シトス」というようなことを、当時、訳もかわらずに教わったものである。
尤もその頃、父は事業のため広島に別居していたものだから、家庭にあっては、殆んど祖父の教育ばかり受けていたわけで、一通りの勉強が済むと、毎日一番は必ず碁を打つ。祖父は帳面を作っておいて、打つとそれに打った印をつけ、星目からはじめて五十番打つと、勝負にかかわらず一目ずつ石を滅らして、八目、七目も上ってそうして先まで打って貰った。
初段の免状を持っている祖父が学齢に達したばかりの児童を相手にして、それが祖父には、何等興味を惹こう筈もないが孫可愛さの余り一心不乱に教えてくれたのであろう。 やがて小学校を卒業してからは、広島の父の許に行き、高等科を経て広島県立第一中学に通学するようになった。
中学時代
私は、余り自慢にはならないが、学校を休んで碁ばかり打っていた。
しかし中学に入った時は受験生が六百人以上あって、百二十人採るうちで、合格したときは二番の成績であった。
そして、一年の時には、教室の首席でもあった。それが二年になると十番落ち・三年になってまた十番落ちて、三年学級で全体の二十二番になった。
それからは、碁のために学校を半分ぐらい休むようになった。
私の生涯で何より嬉しい思い出は、中学に優秀な成績で入った時と、初めて三段をもらった時のこの二つである。
まあ、段については、五段になった時、ちょっと問題があったが、あとは六段も七段も八段も自然にだらだら上って、「また上ったのか」というぐらいの感じしか受けなかった。
祖父に教えを受けているうちに十二、三歳の頃には、もう祖父には負けぬ程になっており中学時代には、もう祖父は私とは碁を打たなくなっていた。
広島での打手という打手は大抵負かしてしまった。
しかし、その頃はまだ別に専門家になろうという考えはなかったが、あちこちと他流仕合をやって勝つのが楽しみであり、従って学業の方は半ば放棄して、毎日のように碁ばかり打っていたものである。
この頃から、私は、古人の碁譜によって勉強を始めた。それと詰碁の研究である。
当時、時事新報に毎週一回、本因坊秀哉氏の詰碁が出ていた。これが、後には「死活妙機」(本因坊秀哉氏の名著)という本にまとまっているが、この新聞の詰碁を解くのが楽しみで、私は、それをほとんど解きそこなったことがなかった。
難かしい問題に出くわすと、私は徹夜して考え抜いたものである。しまいには問題に石が一つ落ちていたりする誤りを指摘し、ここに石がないとこの詰碁は詰まない、というぐらいまで徹底してやった。
これが碁の上達に役立ちカをつけた一つの原因となったようである。
私は、中学時代になってから、強い人に打って貰ったことがなかったが、十六、七歳の頃、私の母方の祖父で、能美島の光源寺の住職をしていた海谷晃耀という浄土真宗の僧侶−俗に安芸門徒というぐらいだから、広島県下の寺院には浮土真宗が一番多いがーその祖父が後に神戸の善福寺に招聘(しょうへい)されて行っていたので、学校の春休みを利用して、祖父の許に行き、暫く逗留するうちに、中根鳳次郎五段に、三子を置いて一局打って貰ったことがある。
そこで初めて、五段の先生の碁のうまさというか、専門家の碁の軽妙な捌きを体験した。
というのは、それまでの私の碁は大体においてカ碁であったが、さすがに相手は五段の先生だけあって、私がカ碁で攻めていても軽くはずされてしまう。勝負は、私が勝ったけれども、カばかりではいけないことを悟った。たった一番であったが、この時を境にして私の碁風は一転機を来した。
そうこうしているうちに、私の父は、海岸の埋立事業とか、その他のいろいろな事業に手を出して失敗し、経済的に非常な苦境に陥った。元来、私の家は、昔は割庄屋などをやっており、また数隻の船も所有していて、かなり手広く回漕業をやっていて相当の資産もあったらしいが、それが祖父の代から砂糖黍(キビ)の栽培やその他種々の新事業を試みて失敗した結果、家運が次第に傾いて来ていたようである。父は早くから広島へ出て県会議員をつとめるかたわら海外渡航会社を起こし、ハワイや北米方面への移民事業に携わっていた。
移民会社が創立された当時県の当局者は若しも移民が盛んになって大量の県人が海外へ移住するようになったら、自然、村の疲弊を招きはせぬかと、そんな杞憂を抱いていたくらいだから、最初は会社の経営に相当骨が折れたらしいが、いざ実行に移されてみると、気遣われた移民から後には故郷に送金があるようになったので、村の田畑の値が上がり県の富力は次第に増加し、後には県当局も積極的に移民を奨励するようになった。
畢竟、この会社の創立によって、広島県が日本の移民の先駆となり、海外に第二の故郷をうち立てる結果となったわけである。
後日、県で、府県制創立五十周年に当たり、明治十八年以来県会議員として前後十八年間県政に尽力したという廉で、相川広島県知事の名をもって、追頌状を贈られた。これは、たとえ生前に報いられる所がなかったにせよ、死後の余栄として、先考の慰霊に値するものである。
それはさておき、私が中学五年に進んだ時、傾きつつあった家運は凋落の一歩を辿るのみとなった。父は、やがて極度の神経衰弱にかかり、所謂、弱り目に祟り目の逆境に喘ぐに至り、ひいては私の遊学問題にも影響して、ここに折角の希望は根底から覆され、中学も五年限りで退学の余儀なきに至った。
私の父は、青年時代、中央に出て学問をすることに大きな夢をもっていたのだが、祖父の反対で空しく志しを抱いたまま郷土に老いたものだから、せめて私だけは東京に送り、最高学府の課程をふませて、一廉(ヒトカド)の人物に出世させようという希望で、私の前途に多くの期待を懸けていたようであった。
それまで私は、碁は趣味でやっていたので別に碁打ちになるつもりはなかったが、家がこのような状態になってしまったので、自分の将来というものを改めて考えざるを得なくなった。
たまたま、当時、私の父と親交のあった広島県選出の代議士、望月圭介先生が、私の祖父と父に、私を碁の専門家として立たすべく口説落して、私が中学五年、二十歳 の明治四十一年の九月に東京に連れていってくれた。
祖父は、もう、私を碁打ちにしたくてたまらない。父は、私を専門家として立たせることを余り好まなかったが、父の意志の好むと好まざるとに拘わらず、大学に私を入れようにも学資の続くあてがなくなったので、結局、望月先生に私の前途は一任されたわけである。
だから私が碁打ちになった因縁のうちには、父が事業に失敗したということが、一つの大きな要素として数えられる。もとより、私が碁を嫌う筈もなく、自然に、「それでは一つ碁で生きて行こうか」ぐらいの考えをもった。父が失敗しなかったら、私も碁打ちにはならず、順調に学校を出てどこかのお役所の課長にでもなっていたかもわからない。そうなっていたら、趣味人としての私の碁の技禰は、素人として強いといわれている一本松珠磯君とか、青木一男さんとか、松村義一さんとかいうところに落着いていたことであろう。人間の運命というものは、全く不思議なものだと思う。
このようなわけで、明治四十一年の九月に、望月先生に伴われて上京し、築地の有明館という旅館に投宿し、中央棋界の消息を探った。
青年時代
その頃、東京では三段の伊沢春湖というひとの肝煎りで少壮碁客血戦会という二、三段の若手棋士を糾合する囲碁団体が組織されていた。
(中略)
兎に角、一旦参加したからには、負越せば段が下がるという甚だ厳しい規約であるから、このメンバーの総ては、異常な緊張をもって手合いに臨み・・・・
(中略)
望月先生はこれを聴かれ、これは青年の訓練には誂え向きの道場であると考えられ早速私を連れて赴かれた。この会における第一回の私の試練は、小林三段に対して先を布いた手合いであったが、当時の模様が大町桂月氏の随筆集「行雲流水」中に「碁の一日」という表題で、次のように書いてある。
(観戦記より)
・・・・望月代議士がつれ来れる芸州の一少年、まだ段をとらぬ瀬越憲作氏、先にて三段の碁将、小林健太郎氏と対局す。
(中略)
・・・・凡そ五六十人、煙草の煙、香水の香と共に一座に浮動す。
(中略)
午前より始めて、夜に入りて、小林三段、終に碁を擲(ナゲウ)つ、草奔無名の一少年、都の檜舞台に出でて、一躍して、三段の碁将を斃(ヘイ)したるは、げに天晴れの巧名手柄也。
望月圭介氏いかめしげな顔に微笑を浮かべ、幾度か少年の脊を撫して去る−−−
これから間もなく、血戦会も維持が出来ないで解散となったが、これが、私が東京に出て最初に打った碁である。(碁譜1)
私が勝ったのでそれから評判になって、明治四十二年の五月に徴兵適齢で郷里へ帰るまでに四、五十番は打った。勝率は大体八割程度であった。
方円社へ入社
私の人生の門出は、かようにして華かな出発であったが、若輩の身で、いつまでも高価な旅館生活を続けるわけにも行かず、いろいろ身の落ちつき先に迷ったが、伊沢氏が第十九世本因坊秀栄氏の門人である関係から、その斡旋によって、当時、秀栄名人歿(ボツ)後の湯島の邸に妹御と一緒に暮らしておられた名人の寡(やもめ)夫人の許へ、寄宿することとなった。
その頃の日本の囲碁界は、大体二つに分れていた。一方は本因坊派であり、一方は方円社派である。方円社というのは、明治十二年の創立で、これは現在の日本棋院のような大衆普及の目的で出来ていた。その時の方円社々長は、三代目の巌崎健造という八段の老人であった。初代は創立者の村瀬秀甫、二代目は中川亀三郎である。そして本因坊派は、第二十一世本因坊秀哉が、天下を脾睨していて、技においては天下無敵であった。
さて、私は東京に出て来たものの、どちらへ参加するかということが問題になった。これは大きな問題である。普通なら芸を磨く上から天下無敵の本因坊秀哉に入るのが常識だろうが、望月圭介先生はちょっと向う意気の強い人なので、
「どうだい、方円社の方へ入って、本因坊を目標にしてやったら・・・」とおっしゃって、私もこれに賛成した。それで私は方円社に入って、結局、打倒本因坊を目標にして進むことになった。方円社は、その頃芝の愛宕町にあり、後に芝の桜川町に移った。
上京した四十一年の秋から翌四十二年の春にかけて、教えを受けた、著名な人々は、本因坊秀哉、二代目中川亀三郎、関源吉、岩佐、野沢竹朝、鈴木為次郎、高部道平、木村広造、その他の諸氏であるが、無段当時、三子で秀哉名人に打って貰った一局が、今も強い印象に残っている。それは桜田門外司法大臣官舎の一角に屹立する銅像の主、松田正久氏(当時司法大臣)の所望で、麻布笄(かんざし、こうがい)町の私邸に招かれて対局した時のことである。
夜の十二時までかかって幸いに勝を得たので、松田さんの引留めるのもきかず、同邸を辞して湯島に向った。
今日と違って、その頃の東京は電車の運転区域も極めて狭く、勿論タクシーもバスもなく、ただ、辻々に人カ車夫が提灯を毛布にくるんで、股火鉢しながら客待ちしているくらいのものだったが、笄町辺の往来の稀れな所には、それさえ身受けられず、とうとう麻布から湯島までてくてく歩いて帰り、寒中のこととて大層辛い思いをしたことがあった。
この一局に限らず、私は秀哉名人に対しては、三子から先になるまで、一番も負けずにみな勝った。三子を二番打って二子となり、二子からは四番手直りであったが、全部押し切った。私の記録としては大した記録である。兎に角、三子から、先で一番勝つまで、合計十一番というものを全部勝ちっぱなしであった。これはいささかほめて貰えると思う。
旭将軍との決戦
(中略)・・・
「それは勝てばなんだが、今まで打っている相手は弱い人も大分混っているから…」
「それじゃあ、とにかく相手を選んで出してもらおう。争碁を打たせて、実カで三段をとらすことにするから」
大変なことになったものである。巌崎さんもムキになって、
「そういうことなら適当の人を選んで出そう」
ということになった。
その時に選ばれたのが、当時三段であった方円社の至宝、鈴木為次郎氏である。元気充満、出れば必ず勝つというので旭将軍といわれていた。
私が二十一、鈴木君が二十六歳であった。望月先生は私に、「おい瀬越、お前もこの勝負に負けるようでは、もう碁打ちになる見込みはないから、負けたら碁をやめて田舎に帰り百姓になるんだ」
といわれた。
「そうですか、それでは負けたら百姓になりましょう」
神妙に頭をたれて私は答えた。
勝負の仕方は、六番碁といって、六番打つのだが、私が二段格で打つので先相先という手合である。つまり黒々白で一組である。打分けとなれば二段しかとれない。六番打って二番勝越せば三段がとれるのである。
さて打ちはじめて最初の三番のうち、私が黒を一番勝って黒を一番負け、白に勝った。その次の三番の黒二番のうち一番入れられた。だから五番だけは勝、負、勝、勝、負ということになる。最後に鈴木君に黒が残った。
その当時、鈴木君の黒は高段者といえども勝てないと見るのが常識であった。これに負けると打分けになる。打分けになったら三段はくれない。とうとう碁をやめて百姓にならなければならないかな、と思った。
望月先生の本心にはそんなつもりはなかったのかもしれないのだが、しかし若かった私は、先生の言葉を正直にとって、この碁は一生涯の自分の運命を賭した碁だと思わざるを得なかった。
その心算で打ったためかどうか、その碁は私が二目勝ち、この碁だけは巌崎さんにもほめられた。
「此ノ布石白面白シ」
というのである。それで、まあ実力で勝ったわけであるから、巌崎社長も、快く認めてくれて、晴れて三段をもらって帰郷した。
巌崎社長に選ばれた鈴木君にとっては、争碁でもなんでもなく、いわば試験台になったまでのことであったかもしれないが、私にはこれが世に出られるか出られぬかの争碁と考えられ、随分と苦しい六局であり、六局というより、最後の一局の緊迫感は今でも私の胸底に深く残っている。(碁譜2)
四段対無段の一戦
やはり私が無段の頃、明治四十二年一月であったが、ある日、本因坊秀栄門下の安藤政得三段が訪ねて来て、「君の碁が、大分、評判になっていて、朝日新聞で非常に希望しているから、高部四段と打って貰いたい」との申入れがあった。
対局の場所は本郷一丁目の伊藤甲子宅、期目は廿五日ということになって、当目の朝出かけて行き、どっちが早かったか、高部君も来合せて、直ちに碁盤に向って対座した。ところが、いざ対局ということになった時、高部四段は、「私は四段で、君は無段だから、二子で打とう」と提案して来た。
当時、私は二段格で、五段の人には先二の二子番から打ってもらうのが、規程であるけれども、岩佐五段、関五段、野沢四段の如き人々も、私の技量を認めてくれて、特に先番で打ってくれていたので、高部君にも勿論先番だと思っていた。
だからそのことを述べ、かつ上京前、神戸で先で二番打っていることを話したが、「あれは稽古碁である。今度のは正式の手合だから、そうは行かない」とあって、どうしても先番ということを承知してくれなかった。
私はどうでもよいとしても、私にも後援者や背景があって一存には参らぬから、先番でご承知願えなければ、このまま打たずに帰るほかはありません、といった次第で、すでに物別れになるところであったが、その時、安藤三段が、兎も角、この碁は私にまかせてくれ。
若いもの同志のことだから、互にいい分もあろうが、高部君、先番を打ち給え、先番で打つとして、そこに条件を設ければいいではないか、この先番に瀬越君が勝てば、先々先の先番を勝ったことにし、負けたら先二の先番を負けたことにしたらどうか」
と仲裁に入った。
一座の空気として、それでも嫌だとはいいかねて、その条件で打つことを承知してしまったが、当時の事情として、この仲裁は私にとっては非常に不利な条件であった。というのは勝った時の先々先の先番というのは、始めから私の考えていた手合割であり、負けた時の先二の先番ということなど、夢想もしない。初段の手合割に立戻ることである。
この頃、一般に打込手合割が、その実カとして世間に喧伝され、かつ専門棋士同士は新聞社の企画とか名士の斡旋による対抗戦とか、何番碁とかいうものでない限り、お互に容易に顔が合うわけでないのだから、この一番に負けて先二の手合に落ちた日には、それこそいつになったら互先まで打込み得るか、見当もつかなかった。
先々先と先二が一番の碁で決定するということは、棒に勝つことを想像しても、この一番が十番の勝敗に価することになるわけだ。
こんなわけで、そのいきさつを報道することによって、この碁は大変評判になり、是が非でも勝たねばならぬといった気持から、私も大分固くなった意味があり、碁譜としてはあまり自慢にならないが、お昼前から打出して翌二十六日の午前三時に終了、黒が四目勝つことを得て、まずまず先二と笑われずに済んだ。これも高部君にしてみれば、気の軽いものであったろうけれど、修業時代の私としては、争碁的気分の辛い一局であった。(碁譜3)
まあこれが、私が東京へ出て来てから半年余りの間の話であるが、それから郷里へ帰って、パラチブスをやったりして半年近く郷里で遊んだ。その間人気者であったから、あっちこっちへ招かれて族行をした。
十二円五十銭の碁
日本棋院が大正十三年に創立されるまでは、丁度、昔の政友会と民攻党とが対立していたと同じように、本因坊派と方円社派とが万朝報紙上で対抗戦をやっていた。当時の万朝報は碁と将棋と聯珠欄が断然光っており、万朝の碁に選ばれることは棋士の名誉であるとして、みな真剣そのものであった。
万朝報社長の黒岩周六という人は、政治家であり、涙香としての翻訳小説家であり、囲碁、将棋、聯珠から玉突、はては俚謡正調、俳句、和歌等々の趣味に通暁した才人であった。
当時、私は五段であったが、小岸君がこの万朝報で四人抜きをし、五人目に私の出る番になった。
小岸君は、二十六歳の若さで修業なかばにしてこの世を去ったが誠に惜しい人で、本因坊も行く行くは自分の跡目を継がそうと将来を嘱目していた。
その時はまだ二十一、二歳であったが、若し今生きていたならば、九段にはなっている人であろう。当時、破竹の勢で時事新報の勝抜戦で三十二人抜きをし、荒木又右衛門の記録をまさに破ろうとする勢であった。ただ、この人の欠点というか、碁が非常に長く、自分で得心の行くまで考えるといった調子で、何日かかろうがそんなことは一向頓着ない、芸道に忠実といえば忠実な人であった。
この小岸君の五人抜きを喰い止めてやろうと私もむらむらと敵慨心が起った。
打ち始めると、そういう訳の碁であるから一向手数が進行せず、打次ぎ打次ぎと回を重ねること六、七回になっても形勢不明である。新聞社は毎日二十五手ずつ掲載していたが、牛歩のような進行状態に規定の手数を載せることが出来ず、毎日打った手数だけ乗せるといった始末で、係りの人が毎日傍についていて、打った手を記録して行くような状態であった。
そして第八回目の打継ぎの時であったと思うが、私が相手の意表の手を打ったので朝九時頃から午後の四時頃まで考えて、黒が一手打って打掛けとなった日もあり、流石の係記者も一手も記録出来ずに、しびれを切らしてそのまま帰ったこともあった。こうして漸く九日目のタ方になって終局し、結果は持碁になった。間を休んだ日もあったから、その局は二十日以上もかかってやっと終了したわけで、その時受取った手合の報酬が僅かに十二円五十銭であったと記憶している。
今から考えると物価も安かったが、それにしても十二円五十銭の報酬で二日以上もかかっては、生計の足しにもならず、こんな碁を打っていては飯が食えんといって後で大笑いしたことがある。
しかし、一局に没頭してその勝負を争う以上、金銭の事はもとより、他の一切を放擲してその局に専念精進する、これが棋士の命といってよいであろう。当時、祖父理兵衛は、小岸君との一局に私が余り精根を打込んで、帰ってから常に考えごとをしている様子を見て、「お前は碁でそんなに心配するようでは、まだ修養が足りない証拠だ。私なんぞは碁を打てば食事もうまいし、夜もよく休まれるのに、もっと精神の鍛練をしなければだめだ」
と訓えられたが、私は、それは祖父さんが素人で、楽しみに碁を打っているからそんなことがいえるので、私は専門家として立っているのであり、それに今度は、方円社の代表として出ているようなもので、単なる私個人の責任ならまだしも、方円社の体面にも関することだから心配するのではないか、と心で抗弁し不満を抱いたものの、その後、追々と年を取るに従い、自分の未熟を悟り、祖父の真に碁を楽しむ境地が解って来て、今ではこの気持にならねば達人とはいえぬことを悟った。
兎に角、これが、私としては一番長い時間を使った碁である。(碁譜4)
小岸君とはもう一つ思い出がある。これも五段の時であったが、神戸で久保松勝喜代君の五段の披露会があった。その時、東京からは本因坊はじめ中川その他多くの高段棋士が招かれて行ったが、私も小岸君も同行した。呼び物は私と小岸君の碁である。ほかの碁も数局あったがその方は、一日か二日で済んでしまい、例によって私と小岸君の碁は済まない。最後まで打切ってくれというわけで、とうとう五日目に徹夜にかかってしまった。
今に覚えているが、久保松君が会の後始末の忙しい中を捨ててもおけずいろいろと接待してくれた。その碁も持碁になって、当時評判になったものである。それはやはり本因坊派と方円社派の対立である。丁度、現今の日本棋院坂田九段と関西棋院橋本九段とが相対するようなものである。
対立ということは真剣味があるという点において面白い。(碁譜5)
万年劫(コウ)の大抗争
昭和三年の秋の東西対抗戦では、はからずも、私と高橋重行君(当時三段)との間に万年コウが出来、これが大問題になった。高橋君は本因坊秀哉の義弟である。(碁譜6)
第一譜、第二譜を経て、第三譜に至って、左下隅方面にコウ争を生じ、そのコウ争の折衝から第四譜の如く右辺に万年コウの形が出来てしまった。そして第六譜の経過によって終局となった。第六譜を見て貰えば解るが右辺の白の大石は白からコウをツグと六目ナカデの死となるからコウを白からツグ手はない。黒はコウをとってツゲば、セキとなるが、それでは碁が大変足りないから、あくまでコウで頑張って、折があればもう一手入れてこの白を取りに来るかも知れない。
そこで、白はその手段を封ずるために勝敗に影響するようなコウ立てを一切解消した。例えば、左辺六八の処を白からツイでいる如き手まで打って、さあこれで取りカケに来るなら来てこ覧なさいというゼスチュアのもとに打ち進み、この譜には現われていないが、これから更に互にダメをツメ合ったものである。かく機会を狙いつつ最後に互に打つ処がなくなってしまったが、黒はこのコウをツイでセキにすることに満足しないからツガない。そうしてツガないから碁はまだ終っていないというのが、問題の起りである。
観戦していた久保松君が
「あっ、これは問題だ」
と口火を切り、それから紛糾して、議論が百出した。当の高橋君は、みなの意見次第にまかせる積りであったようだが、審判員であった岩佐七段は、黒が取ってツイでセキとすべきだといい、従って、本局は白勝であると断じたが、西軍中より高橋君がツガなければ、碁は終ったとはいえない、終らない碁に勝負の決定を与えることは出来ない筈である、と物言いがつき、こじれにこじれて、本因坊の判決に待とうということになった。
秀哉名人の意見も甚だ判然とせず、とどのつまりは大倉副総裁にはかったりして、あれこれと紛糾した挙句、白勝と認めるが、黒にも負無し、という事に結着した。この問題が起ったため、大手合は一ヵ月休みとなり、大倉さんが心配して、東西対抗戦も人気取りにいい制度だが、両軍棋士の感情を刺激し過ぎて、折角統一した棋院がまた分裂するおそれがあるから、とり止めにしようという事になり、東西戦は廃止することになって、普通の手合にもどったわけである。
自分でいうのも変だが、私は、この当時、一番油が乗っていたというか、非常に調子が良く、八段昇段を目前に見るといった際だったので、碁界に私に対する一種の嫉視のようなものがあったようである。常識的にみて、一向に問題でなさそうな本問題が、単なる白の勝局と決定しなかったことについて、人生に一沫の暗い疑問を生じ、これから暫くは対局にどこか身の入らないものを感じた。
昭和十四年に囲碁規約が制定されて現在では−再びこのような問題は起らぬようになっているが、何にしても、当時は徹底的に打のめされたような気持であった。万年コウについての研究は『続・囲碁読本』にかかげ、世に問うこととした次第である。
かくして、東西戦はなくなり、気勢は落ちた。やはり、東西でやっている方が面白かったように思う。
新布石との対戦
昭和八年の秋頃から新布石なる目新しい打ち方が出現した。発案者は木谷実君と呉清源君(当時共に五段)である。
昭和八年の夏、木谷君は、『布石と定石の統合』という書を著すため保養がてらに信州地嶽谷温泉に行き、丁度、呉清源も同行して互いに研究の結果、生れた布石である。片側の二隅の星とその中間にある星に星打ちを三つ並べる布石で、当初は、日日新聞打切棋戦での前田陳爾君、(当時五段)との対戦、報知新聞の勝抜き戦での小野田君(当時六段)等にこれを試み、うまく行かなかったようであるが、その後の秋の大手合ではこの三連星によって二等賞を獲得、六段に昇段し、一方呉清源も読売新聞の本因坊秀哉との対戦には星と天元と三ノ三の布石を併用して予想外の反響を世間に巻き起した。
安永君の言を借りていえば「正に高鳴る時代の警鐘」という、サブタイトルにふさわしい爆発的な人気を博したものである。実際、この時代の木谷君は日の出の勢いであった。勿論、三連星の成功は木谷、呉清源両者の技量卓越せる結果であろうが、当時にあっては、専門棋士、アマチユア棋客の如何を問わず、碁界は挙げて三連星を打ち始め、旧来の布石は殆んど顧みられなくなるほどの流行をしめした。
昭和九年四月、春の大手合で私はこの新布石の発案者である木谷六段と対局した。私は、白番であったがこの三連星をなんとかして打崩そうと大いに工夫して打った。第一日打掛、第二日の打切日は徹夜になり、深更になるに及んで、木谷君は漸く時間切れの危機に見舞われていたが、「何うも気分が悪いから休ませて貰いたい」との申入れがあって二時間ぐらい休み、それからまた打次いだ。終局近くなって、私の不注意から二手ばかり悪い手を打って、二目の負けとなったが、木谷君もこの碁には大分頭を痛めたようである。
今調べ直してみても、従来の形とは、大変かけ離れたものであるが、一手一手に意味を含んでおり、新布石に対する応戦としては立派に打っていて、碁としては押されたところが一つもなく、結果は、私の負ではあったが、私の力作の一つだと信じている。(碁譜7)
ラジオ放送・早碁の経験
昭和九年から十年にかけて、一手一分以上の考慮を許さぬ条件の早碁手合が時々放送されて全国同好者の人気を博したことは年輩の方は皆よくご承知のことであろう。
AK、BKの二元放送による鈴木七段対光原六段、久保松六段対呉清源五段の関東、関西対抗戦がまず行われ、久保松六段先番天元打ちの碁など、新布石ばやりの当時のこととて随分と評判になったものである。
昭和十年の正月、お年玉放送といったような意味で、私と鈴木七段との対局を本因坊秀哉名人が解説してくれる、一手一分以内、一方の持時間四十五分、一局一時間半で打ちきってしまう、という規定のもとに行われた。
鈴木七段はラジオ放送はこの前既に光原六段と一局打っている体験があるが、私は初めての対局である。尤も、鈴木七段が光原六段と打った早碁は、一手一分以内一回一時間で四回に亘って終了する規定の下に行われたのであるから、この一時間半で打ちきる早碁とは大分内容が違うわけである。
大体、布石時代は日頃の経験と見当で打てるけれども、戦いが始まって石の死活、コウ、攻合など、こみ入った問題が随処に起きて来るのを、トッサの間に読みつくして一手も誤らぬように打たねばならぬのであるから、結局、カンの働きによる他はない。時に或は意外の落手や見損じなどが出来ないとも限らない。完全を期することは望むべくもないとしても、まず大過なく打ち終ることが出来ればよいがと念じていた。
さて、打ち始めて見ると、案ずるよりは産むがやすしとやらで、すらすらと運んで、まず大過なく打ち終ることが出来た。早碁としてはまず上出来の部に属するものと信じている。
元来、鈴木七段の碁は読みが深くてネバリの強い渋い芸風の持ち主で、天下無敵といわれた本因坊秀哉名人の力を以てしても鈴木七段を力で押すことは出来なかったものである。従って長考型の棋士である鈴木七段が、このラジオの早碁において、このぐらい打っていられるのであるから、高段棋士のカンというものは、いくら早く打っても、そう狂わないことを実地に示している。
兎に角、私としては一生に一度この早碁を打った記録として残しておく次第である。(碁譜8)
中国への囲碁使節団
[編集者:大正八年にも中国の北京、満州への囲碁行脚が載せられている(本因坊秀哉名人が同行し模範対局をしている)。また、その帰路には韓国にも立ち寄っている。が、これは昭和十七年の話しである。]
昭和十七年に、・・・・
(中略)・・・
南京に北極閣というところがある。外国人を接待する迎賓館といったところである。私たちもそこへ招待を受けて、呉清源と私が模範手合をして見せた。日本の陸海軍の有力者や汪兆銘と南京政府の要人が多数集って、私達の周囲で観戦した。その光景を中国の新聞記者連が、マグネシュームをたいて写真にとったが、一人のカメラマンが誤ってマグネシユームを呉清源の後で、大きな音をたてて爆発させた。私どもはみな頭からその被片をかぶったが、この種の体験には何度もあっているので、軽く目を閉じただけで、別に驚きはしかったが、同行の水野君が汪兆銘がどんな顔をしているかと思って覗き込むと眉一つ動かさず微尽も動揺した風はなかったそうである。
[編集者:瀬越名誉九段と呉清源との対局は聞いたことがないので、めずらしく思いここに載せた]
原爆直下の本因坊戦
私は、昭和二十年三月に広島の郊外の五日市というところに疎開した。日本には五日市とか二十市とかいう名の町が方々にあるが、あれは、昔、五日に一回、二十日に一回ずつ市を開くというところから出ているらしい。余談だが、府中というのは、昔、みなそこにお役所みたいな、いわゆる行政機関が置かれていたので府中と名付けられたとのことである。
広島の五日市は、広島市の西端から一里半ほどの所にある。その五日市の海岸の海老山という山の麓にハワイに在住している人がもっている別荘があって、私はそこへ疎開したのである。
昭和二十年、五月二十五日の東京空襲で麹町の永田町にある日本棋院が全焼した。日本棋院が焼けてしまっては本因坊戦が出来ない。かといって、このま中止してしまうのも残念なことだ。これを一つ広島で挙行してやろうと、私はむらむらとそんな気を起した。
広島には棋院の支部がある。支部長の藤井順一さんは、ハワイの成功者で、ハワイに大きな店をもっていて、その店は部下の人に任せ、自分は広島に帰って実業をやっていた。碁は私に五子ぐらいである。本因坊戦を広島の支部で催すことについて、私は藤井さんに相談した。碁の好きな藤井さんは、それは非常に名誉なことだからといって快く引受けられて、なにかと尽カしてくれた。
広島の警察部長が青木一男さんの弟さんの青木重臣という人で、東京の警視庁の官房長を勤めていられた時に、橋本の稽古を受けたことのある、いわば橋本の門人である。私は青木さんのところへも行って後援を頼んだ。その時は橋本が第二期本困坊であり、挑戦者は岩本であった。当時、橋本は宝塚に帰っていた。私は本因坊戦の開催について、両君へ手紙で意向を打診した。結果は、どちらも賛成してくれたのだが、交通状態が殆んど麻痺してしまっていたため、なかなかうまく連絡がつかない。最初、橋本が出て来て、二、三日いたが、相手が来ないのでひとまず帰ってしまった。
その後、岩本君が郷里から出て来て、これもまた帰ってしまった。
とかくするうち、二ヵ月も経って七月になり、七月二十四、五、六の三日間、広島で打つことになったが、五月には安全地帯といわれていた広島も、七月になるともはや危険区域になっていた。対局場は広島の元安川という川ぶちにある藤井さんの立派な別荘である。が、その頃には、土佐の沖の方から艦載機がやって来て機銃掃射をやったりする情勢であった。それでも橋本と岩本は予定通り三日に亘り打継いで、第一局は岩本の白三目勝ちとなった。
勿論、私は立合っていたが、三目の間に敵機襲来で防空壕に何度も入った。第二局目である。青木重臣さんが、突然、もはや広島で碁を打ってはならぬ、といい出した。危険を察知されたのであろう。私も責任上、その言に賛成した。そこで、広島は危険だからどこか他で、宮島とか二十日市だとか、広島市から離れた場所で打ってくれという青木さんの忠告を、藤井さんは、「私はこれを一且広島でやると引受けた以上、私のところで打ってもらいたい。広島が焼けたら、それはその時でよいではないか焼けぬうちからそんなことをいっても仕方がない。兎に角、私の支部でやってくれ」
といわれた。さあ、えらいことになった。藤井さんにしてもあの物資の不足な時に一局打つと食料やらその他で莫大な経費がかかる。藤井さんの力だから出来るのである。普通の人だったら逃げ出すものを、焼けるまでやろうという。その意気は私たちも買わぬわけには行かない。どうしたらよいかというので、相談の結果、対局者が空襲があると考えが中断されたり、そわそわして快心の碁が打てないから、青木さんのおっしゃるような、どこか落着ける場所で打ちたい、ということでけりをつけた。
青木さんの広島市内で打つことはならぬという本因坊戦対局中止の申入れは大変強制的なもので、もし対局を続けるようならば、警察の権力でこれを中止させるというほどのものであった。
第二局は五日市で打った。そこには中国石炭の統制会社の事務所があった。社長が津脇勘市氏で大の碁の愛好者である。事務所が私の家のすぐそばにあり、碁を打つには格好の場所である。私は津脇さんに話をして、そこで八月の四日、五目、六日と打つことになった。
私どもは、非常に好運であった。青木さんの霊感というものか、八月六日の朝、第三日目を打ち始めようというので、碁盤を拭いてさてこれからという八時六分か七分頃である。同行して来た橋本の弟子の三輸芳郎(当時五段)が坐って時間づけをし、矢野という私の門人と私の弟の正治が次の間で観戦していた。
突然、東方、広島市の方からパッパパパバパと、電車がスパークするような青い光が、二、三秒、我々の眼に映じた。碁の方は、第三日目なので八分方寄せに入っている。もう半日もすれば済む。
「あの光はなんだろう」といって広島市の方を眺めているうちに、今度は広島の上空に、爆弾が海に落ちて上る水煙りのような入道雲が茸のようにむくむくとふくれ上って来た。
「ははあ、これは火薬庫が爆発したんじゃないかな」
と誰かがいった。
「そうかなあ、不思議だな、音も何にもしないんだが」
私は東の縁に立って前方を眺めていたが、それから数秒経ったと思われる時、急に家がひっくり返えるような爆風を受けた。音は全くなかったようだ。
「爆弾が落ちたぞ、爆弾がッ」
私はこういって、座敷の中に飛び込んだ。瞬時にして、ガラスがあたりに飛散した。幸い東側の窓には朝日の日除けに力ーテンが張ってあったので、怪我をしたものはなかったが、表に飛び出すものもいた。なにがどうして、どうなったのか、全くわけが判らない、すごい衝動であった。
跡片づけをしなければ碁が打てないほど家の中が乱れている。碁は中止して、一時間か二時間後、私は一町程離れている自分の家に一旦帰った。私の家も東側の窓ガラスは全部割れ、二階の天井が五寸くらい吹き上っていた。広島から五里距たっている宮島でもガラスはみなやられたらしい。それから二、三時間すると、火傷をした素裸の人が往来をぞろぞろ逃げて来る。何が何だか判らないが、兎に角この打掛の碁だけは済まそうというので、午後になって打続け、橘本が第二局は勝利を得た。
夜になると、私の一番下の伜が帰って来た。火傷をして人相が変っているので、最初見た時は、自分の息子だとは判らない。声だけで判るような状態であった。伜は五日ほど看護したが死んでしまった。私の弟の伜も学校に収容されていたが、その晩に死んだ。二人とも中学校の朝の勤労奉仕で広島へ出ていた。
二日の後、私は青木さんを広島の事務所に訪ねて行ったが、青木さんも災難にあって怪我をされていた。家の中から這い出して助かられたそうで、幸いにも一寸した怪我ですんだようだった。青木さんは、広島は爆撃を喰ってみんなやられると思っていたが、あんなにまでなるとは思わなかったと云われた。
原子爆弾だということは、その時はまだ判らなかった。藤井さんも死んだ。支部の銅金という四段の人も死んだ。伊与賢一といって幹事をしていた人も死んだ。私たちは、もはや碁の手合どころでないという結論で、解散した。本因坊戦は、二番で打分け、しばらく中止になった。
その後、東京に帰って、橋本文治という人のところで二番打って打分け、更に二番は野田の茂木さんのところで打って、これがまた打分けとなり、そのままとなった。
昭和二十一年八月、世間が大分落着いたので、高野山で打つことになった。
丁度、八月は藤井さんその他広島の棋院関係者が亡くなられた一周忌にあたるので、一周忌の会を二十日市の蓮教寺で催し、私はもとより、橋本、岩本両君にも来てもらい、霊前で二、三手打った後、高野山に行って打次がれた。結果は、橋本が二番とも敗れ、第三期の本因坊は一年遅れて岩本の掌中に帰したわけである。
津脇さんには大変お世話になったので、その時功労の初段免状を差上げ、後日、講和条約が締結されてから、感謝状を添えて、三段の免状を贈呈した。
数年後、青木一男さんのお宅で青木重臣さんにお目にかかった時に、重臣さんは、
「私が、広島で警察部長をやっていた時に、いい事を二つしている。その一つは、広島がみんなやられると思っていたから、広島市中にある物資はみな郊外に運び出せと命令を出したことだ。あの時は、非難囂々(ゴウゴウ)であったが、私は断固として決行した。もし広島にああした不祥時が起らなかったら、私は責任を負って辞職せねばならなかったろうが幸にその残った物資が、焼土と化した広島の復興にどれだけ役立ったかわからない。
もう一つは、君方を疎開させて命を拾ったことである。この二つはまぐれ当りにしても、兎に角、私の大きな喜びである」という話をされたことであった。
青木重臣さんはなかなか豪胆な人であった。広島の警察部長から、その後、愛媛県の知事になられて、現在は知事をやめて東京におられる。兄さんの一男さんには適わぬが碁も三段になっている。
あの原子爆弾にやられた時は、実に悲惨な状態であった。まるで修羅場である。私の息子は兎に角、家に帰って来たけれども、帰らないで死んだものが沢山いる。それに原子爆弾の光線を受けると、大概壊血病のようになって体に斑紋が出来て毛が抜けてみな一様に衰弱して死ぬのであった。被災当初は、五日市の私の家の周辺にも沢山の被害者が収容されていて、昼はそうでもないが、夜、あたりが静かになるとあちらの家からも、こちらの家からも死と闘う稔き声が地底から湧き上るように聞えて来て、なんともいえぬ気持になったものである。
朝になるとそれが焼香の匂いに変り被害者の昇天を告げて、寂莫たる気持を懐かされたものである。原子爆弾の中心地で助かった人の中には、手水場に入っていたために助かったという人も大分いる。日本の手水場は、重心の関係で倒れぬらしい。だから手水場は恰好の安全地帯であったようだ。普通は圧力で家が蟇蛙を踏みつぶしたようになり、いきおい火事が起きてみな焼けてしまう。
広島で残った建物は、日本銀行とか鉄筋コンクリートの頑丈な家で、しかも窓に鎧戸のあるものが多かったが、倒壊しなかったというだけのことで、ガタがタになって建物というには余りにも惨めなものであった。
原爆数日後、広島市中に佇んで、一望焼野原と化した、犠牲者の怨魂漂う市街を眺めた時、再びかかる悲劇の起らぬようにと祈ったものである。(碁譜9)
還暦祝賀会
私は、明治二十二年五月二十二目の生れであるから、昭和二十四年はちょうど私の還暦の歳に相当するので、私を贔屓(ヒイキ)にして下さる方々の発起によって五月二十二日に日本棋院において祝賀会が催された。
当日は多数の来会者を予想して、日本棋院は来賓の手合場として、式は棋院の隣にある正覚寺を借りて式場に充当された。式は青木一男氏の開会の辞、津島棋院理事長ほか数氏の祝詞、全国フアンからの祝電披露などあり、私はこれに対して感謝の挨拶を述べて式を終り、それより日本棋院で、呉清源対橋本宇太郎両八段の早碁、各棋士の集会者に対する指導碁などがあった。
当日の集会者は二百名を超ゆる盛会であった。
この日、津島理事長から次ぎのような祝詞を頂いた。
祝 詞
日本棋院棋士八段瀬越憲作先生が還暦の嘉寿を迎えられ茲に本日祝意を表する為盛大な碁会が催うされた夢は慶賀に堪えない所である。
先生は本邦碁界の中枢に在ること既に四十有余年の永きに及び、その間練技尽神に専念せられ棋道の真髄を体得せられ我国の囲碁を今目の如き高い水準にまで引上げられ、又後
進の養成に勢カせられ門下に幾多の俊秀を輩出され更に著書に雑誌に講演に解説に将た亦
国内各地はもとよりアジア大陸にまで足跡を止め囲碁の指導普及に努められる等、棋道の向上と発展に貢献したことは実に甚大なるものがある、殊に深く銘記すべきことは先生は日本棋院の創立並に其事業運営に多大の努力を払われ特に終戦後の重大時機に処し理事長として又日本棋院復興委員会副委員長として、あらゆる困難を切抜け献身的に尽カされ棋院の復興を完遂されたことである。
先生は昨年七月理事長を辞任され引続き顧問審査役として重要な役割を担当され今日に及んでおる。顧みて明治、大正、昭和の三代を通じ先生の我国碁界に対する功績は誠に顕著偉大なるものがある。而してこの輝かしい棋歴と前途に多大の抱負経綸(リン)をもたれて心身益々御健全で還暦の佳日を迎えられたことは誠に慶祝に堪えない所である。
何卒御自愛の上今後多年の薀(ウン)蓄を傾けられ碁界の指導と棋道の向上とに尽瘁(ジンスイ)せられ、殊に囲碁の国際化という先生年来の意図を実現され以て有終の美を完うせられむことを念願し蕪辞(ブジ)を以て祝辞に代える次第である。
昭和二十四年五月廿二日
財団法人 日本棋院
理事長 津島寿一
それから還暦の記念品として立派な一組の碁盤石を贈られた、盤の覆に馬場恒吾氏の筆によって「飛雪」と命名された。
まことに私にとっては無上の光栄とするところで、これも私の碁歴を飾る一生の思い出である。

祝辞を述べる呉清源氏
呉清源
昭和二年の秋頃であったろう。北京で骨董商を開いていた山崎有民氏(碁は素人二段)から、中国に碁の天才少年が現われた。
呉清源というのだが碁譜を送るからそれを調べた上で、もし有望なら日本で修業させたいものだが−−という通信があった。送って来た碁譜を見ると、われわれ仲間の井上孝平(当時五段)が、同年中国を漫遊し、北京でその時に十四歳の呉清源と打ったもので、二子が一局、先が三局の都合四局であった。
いずれも年の割りには素晴しい出来で、その風格はわが国の碁聖秀策の少年時代を髣髴(ホウフツ)とさせるものがある。秀策の碁譜百局を集めた『敲王余韻』という本があるがそれを研究していることがよく判る。
私はすっかり感心して、その旨を返事したところ、山崎氏も大喜びで、是非、日本へ行けるように心配してくれ、尤も少年一人では家族も心配するから、母親も兄貴もみな連れて行けるように計ってくれ、ということをいって来た。これにはちょっと困ったが、それもなんとかしようと返事をした。山崎有民氏は、彼の家に呉清源が遊びに行く度に日本語を教えて、日本遊学を盛んに勧誘したそうである。
しかし、中国では日本の囲碁界の事情に暗い。碁の大家になると生活の安定が得られるなどということが納得出来ない。だから、行きたくはあるが行ってひどい目に会いはせぬかと不安でもある。そんなわけで、なかなか決断がつかぬらしい。
私もその間の消息を感知したものだから、今、時を移さずに日本へ来てこそ天才少年と謳(ウタ)われようが、時期を失して、一年二年と長じてからでは次第に意味のないものになってしまうので、一刻も早く来させようと考え、まず第一に犬養木堂に相談することにした。木堂は、当時、省線信濃町の駅の上に住んでいた。
その近所に私の先輩、岩佐八段(当時七段)が住んでおり、木堂も始終彼の所へ行っていた関係から、私は岩佐さんに後援を頼んで、二人で木堂を訪ねたわけである。私は、木堂に中国の天才少年の話をし−−これを日本で修業させたら名人になるのだが、先方は私どものいうことだけでは不安に感ずるらしく、なかなか出て来ない。
それで吉沢謙吉さん(木堂の女婿で、当時北京大使であった)から、日本へ留学を勧誘するように、貴方から手紙を書いて頂きたい。大使の勧めなら大概意が動くだろうから−−とお願いした。すると木堂は暫らく考えていたが、
「そんなことをいうが、そんな素晴らしい少年を呼んだら君方は皆やられるぜ」
とおっしゃった。
「やられるぐらいでなくちゃ呼ぶ甲斐がありません。やられるようになれば結構です」
「君方がそういう気持なら面白い。手紙は書くよ。しかし、一体誰が世話をするんだ」
私もまだ、生活費をみてくれるという人まで考えてはいなかった。犬養さんは鋭い。碁でいえば急所を衝いてくる。私も返事をしなければならなくなって、
「日本棋院の副総裁の大倉さんに頼みます」
「そうか、大倉が引受けてくれれば、よし書いてやろう」
ということになった。
さあ、しかし、そういって帰ったものの、これはえらいことになったぞ、と内心心配に堪えなかったがこれも碁道のためであると勇気を出して送ってくれた碁譜をもって大倉さんのところを訪ねた。
「実は今日伺ったのは、中国に碁の天才少年が出て、この碁譜を並べてみて私はすっかり感心してしまった。この少年を日本で修業させると海外の碁の普及にもなるし、犬養さんも吉沢さんに手紙を書いてくれることになっているのですが、ただ向うは子供一人は放せないので、親兄弟もついて来るという。
家族の最少限度の生活の面倒を一つみてもらえないものでしょうか」
と語って持って行った碁譜を見せ、如何に素晴しいかを並べてお目にかけるからといったら、
「それは君、わしが碁譜を見たって判りゃせんよ。君がそういうなら強くなるに違いないか
ら、よろしい面倒を見ましょう。二ヵ年間毎月二百円ずつでよろしいかな」
と即座に快諾された。
その当時の二百円といったら相当なものである。私はすっかり安心して、向うへこの旨伝えてやった。簡単にいえばこんな次第だが、その間に半年ぐらい経っている。
天才少年呉清源を日本へ連れて来ることに関係して、昭和三年に私は北京から招待を受けた。日程は一週間ぐらい、旅費の他に千円謝礼するというのである。これが中国の外交辞令の一つなのであろう。ところが、私は考えた。私はその時七段で呉清源には段も何もない。すると私は、呉清源と三子で打たねばならない。三子ではいかになんといってもこちらに勝目はない。二子でさえも自信はない。
日本の七段の大先生がベタ負けに負けたりすると、折角、日本へ留学しようと思っている呉清源の決意を鈍らせる恐れがある。
これは迂潤に出かけられぬという考えから、私は健康の都合で行けないが、私の弟子の橋本宇太郎四段が満洲を廻るというから、彼を私の代りに北京にやることにしようということになった。率直にいえば、それぐらい呉清源は私を恐れさせた。
昭和三年夏、橋本は満洲から北京に行った。二番打ったが、呉清源が先番で二番とも橋本に勝ち、橋本も舌を捲いたわけである。こうして呉清源が日本へ来ることに決定した。呉清源は私に日本での碁の師匠になってくれといって来た。私は、山崎氏に、とにかく日本には本因坊という私より上の名人がいるし、私は呉清源の師となる資格はない。お世話はするけれども師匠となるのはご免こうむると断ってやった。
しかし、向うから−−どうしても瀬越先生にお願いするという手紙を山崎さんと二、三度往復させているうちに、瀬越先生が師匠になってくれなければ、呉清源が日本へ行くのは取り止めにするというところまでに来てしまった。止めるといわれては何をかいわんやで、私も僭越だが名義だけは師匠になり、親代りに何かと世話をしようということでケリがついた。
呉清源が日本に来た時は麻布谷町へ一時落着いた。が、私の住居は東中野にあって、どうにも世話をするのに遠くて不便だったので、私の近所に家を探して引越させた。その時、呉清源と一緒に来たのがお母さんと兄さんと妹さんが二人の五人であった。昭和三年の秋である。
当時は日本棋院の大手合が春秋にあった。春は四月、五月の二ヵ月、秋が十月、十一月の二ヵ月でその二ヵ月間にそれぞれ八局を打つ制度になっていた。そこで呉清源を昭和四年の春の大会から出そうか出すまいかに迷った。
呉清源も橋本と同じように非常な天才であるけれども蒲柳の質で、弱くて目ばかり光っている。
また同じく佐々木隆興さんのところへ呉清源を連れて行って検診をしてもらい相談をすると、佐々木さんはこの人はまだ子供で(十五歳であった)体が弱く、また感受性が強いから、日本へ来て異郷の空気を吸うだけでも肉体と精神を疲労させるのに、その上大手合をするということは少し無理だから、まあ半年ぐらい休んで秋の手合から出したらどうかという常識的な判断をされたので、春の大手合は休んで秋から出ることにした。
しかし、大手合は休んだけれども他の手合は随分打った。打てば殆ど勝つ。旭日昇天の勢でいきなり三段に躍進して、大手合に出場してからもどんどん勝って行って、棋院の大手合は最短距離で昇段しで行った。
昭和五年、私は西荻窪に二百五十坪ほど土地を借りてささやかな家を建て、東中野からそこへ移った。更にその一部を八十坪ばかり区切って三十坪ほどの家を建て、呉清源を呼ぶことにした。呉清源は昭和十六年に結婚するまでそこに住んでいた。母屋であった私の家は昭和十九年に大東亜戦争も熾烈の度を加えて来たので郷里広島へ引揚げることになり、売ってしまい、私たちは空家であった呉清源の家に入った。現在でも私はそこに住んでいる。
呉清源は私の家に十数年いた橋本や井上のような内弟子ではない。それは風俗習慣の違うことを考え、お互に苦労だからと思って、内弟子にはしなかった。だから、私が呉清源の師匠になっているが、自分では若干の世話をしただけだと思っている。それでも十年以上互に隣りあって住んでいたのだから、呉清源に関しては私が日本で一番よく総てを知っているつもりだ。
世上、呉清源を天才々々というけれども、天才には違いないが、非常に努力している点を人人は見逃がすわけには行かない。呉清源が日本に来る時に、学者の揚子安という呉清源の伯父が、「日本へは中国を代表して修業に行くのだから一所懸命勉強して、中国の名声を上げるように」という激励の文字を餞にしている。
呉清源はそれを額にしていたが、彼は名を成さずんば再び帰らぬという、背水の陣を布いて勉強したのである。天才という言葉で世間の人は簡単に片づけているが、この点、私が一番よく知っている。今の若い人はどちらかというと趣味が多過ぎるが、呉清源は一切碁である。
碁一本である。碁一本でもう二十数年やって来ている。これは特筆大書していい事柄である。一例をいうと、呉清源は五段の時に病気をして、富士見高原に一年半ほど療養生活を送り、碁も中断したが、それが治って帰って来てからは、また一所懸命碁の勉強が始まった。私の家の主治医の波多野というお医者さんに月に何回か往診をしてもらっていたが、ある日、私に波多野さんが、呉さんは、いつ行って見ても碁盤と首引きですね。さもなければ経書を読んでいる。
あれでは若い身に毒だから、少しは運動するように、先生からも勧めて下さい」
といわれたことがあった。これをもって見ても、いかに呉清源が勉強家であるかの一端が判ると思う。
呉清源の碁は、七段の時には殆んど大成している。彼に関しては一にも二にも努力である。
艶聞の種もなければ他のことはなにもいうことがない。呉清源の兄は明治大学を卒業して、今は台湾にいるが、碁は現在アマチュアの五段を打ち、仲々の才人で、酒も飲み、ダンスもマージャンもなんでも出来る男であったが、同じ兄弟でもこうも違うものかと不思議に思ったものである。
呉清源は大体が内気な男であるから、交際も余りしない。橋本が若い時、呉清源を野球見物に連れて行ったことがある。ところが戻って来て橘本のいうには、「折角、私が楽しませてあげようと思って連れて行ったのに、呉清源から、あんなものに金を払って見て、どこが面白いのかといわれ、もう私は呉清源を連れて行くのは真平だ」
とこぼしていた。今は野球をも解し、趣味も広くなっているが、若い時代に品行その他については全くとやかくいうところがなかった。
呉清源が一番騒がれたのは、昭和八年二十一歳五段の時に本因坊秀哉名人と読売薪聞の碁を打った時である。例の三三と星と天元というふうに奇想天外の打出しで始った碁で、本因坊としても四段差の先番とあっては、名人として当然勝たねばならず、加えて、彼は中国人であるというようなことから、碁を知らぬ人までが興味をもって、読売は一躍十数万の読者を獲得したそうである。
私が終戦後日本棋院の初代理事長を止めたのは、その碁についての内緒話を迂闊に喋ってしまったのが、読売紙上に書かれて大騒ぎになったからである。
結局、呉清源は、三年間大倉さんの世話になり、その間にすっかり名声を博した。殆んど稽古にも行かず、手合だけで生活して来た。
これが碁打ちの理想郷であろう。碁打ちというものは、稽古−−-教えるということをみな嫌う。手合に没入している時が碁打ちの、苦しいけれども無上の極楽であり、生甲斐なのである。呉清源は全く生活上の苦労もなく、順調に進んで来た。成績がよかったのは一つには環境もよかったためであろう。
呉清源が日本に帰化したのは、昭和十年である。帰化するについては仲々面倒なことがあったが、当時の内務大臣望月圭介先生、日比谷陶々亭主人萱野長知氏、その他いろいろの人が中に入って、中国と種々折衝をした結果実現した。
昭和十六年、呉清源は日本人の中原健一さんの娘さんを妻に迎えた。ところが妻君を貰ってから、彼は妙な方向に進み始めた。
昔から呉清源には神を信ずる心が篤い。最初は西園寺公毅という日本の名門の出の人で、不思議な予言をする人がいて、本因坊、木谷、喜多文子などと一緒に信者になってよく通っていた。その西園寺さんが亡くなってからは、今度は篁(コウ)道会の峰村の弟さんがやはり神憑(ツキ)になっていて、中原健一氏がそこの信者であった関係上呉清源もそれに凝り出した。
そのうちに戦争が熾烈になり、昭和二十年三月、私は広島に帰ったが、やがて終戦になり、天皇陛下の詔勅をラジオで拝聴した。大変なことになったものである。自分の身の振り方を考えながら、私は呉清源の今後の進むべき道についてもいろいろと考えた。日本は戦に敗れ、こんなにもひどくなったのだから、当分文化の復興は望めまい。碁道もしばらくは復興しないだろう。
呉清源は、昔から碁によって日華親善を行いたいといっていたが、この際一層のこと中国に帰って、向うでの碁道を開拓することがいいのではないか。中国では呉清源を喜んで迎えてくれるだろう。中国の碁もそれによってレベルが上って来るに違いない。これが呉清源の今後の棋界のために大きく伸びて行く道であり、彼の念願である日華親善の素地を作る所以ともなろう。それには、今や一身上の毀誉褒貶(キヨホウヘン)は顧みずに、呉清源は、敢然としてその目的に邁進すべきであると私は思った。
そこで当時、広島の警察部長をしていた青木重臣さんにはかったところ、私の考えは、正しいと賛成されたので、早速この旨を手紙に書いて郵送した。
呉清源が、終戦後、中国に復籍したことについて、世間では日本が敗戦国になったから直ぐに見限りをつけ、国籍を離脱し、中国へ復籍したのだと解釈して、不人情な奴だとの説を唱える人もあったが、それは呉清源のためには非常に気の毒で、非難の大半は実は私が甘んじて受けなければならない。私は、東亜棋界、いや、世界をも対象とする大きな今後の碁界の立場から、呉清源に大いに働いてもらいたい。そのためには、あらゆる角度から考えて復籍した方がよいと考えたからである。
私が、同好者に望むところは、もっと大きな度量をもって広く碁界のことを考えて欲しいということである。わが国の棋道は、私の終戦直後の悲観的考えとは逆に、津島氏を初め碁界の人々の努カによって、意外に早く復興した。それは無論私の望むところであるが、それ故に呉清源の復籍が時機尚早だったとは思わない。私は、今でも私の考え方は正しいと信じている。
昭和二十七年七月、呉清源の台湾行にあたっての壮行会が、品川の前田侯の別荘で行われた。行くことになった動機は台湾の碁界から招待を受けたということと、お母さんを連れて来るということであった。妻君と秘書の多賀谷君、それに本田幸子初段を連れて行った。台湾には福建省の人が多いから、呉清源の郷里みたいなものである。果して大なる歓迎を受けて大国手の称号(日本の名人に比すべきもの)を、授与されて帰朝した。
呉清源は、今年、箱根千石原から小田原に新居を移し、夫婦の間に一男をもうけて、母親とともに水入らずの平和な生活を営みつつ碁界に前人未踏の新境地を拓きつつある。
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